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流浪に献身

10月22日は筆者の妻の46回目の誕生日です。
22歳で筆者に嫁ぎましたから、もう人生の半分上、筆者とともに暮らしていることになります。
思えば苦労をかけ通した月日でありました。
…と言っても、今もまだそうなんですけれど。
嫁いで来た当初は「プチ玉の輿」に見えたかも知れませんが、下の子が生まれた頃から筆者の実家の家業が傾き始め、そこで働く筆者の給料もたびたび遅れ、果ては手形を落とすために保険から何から解約して実家の家業を支える状況に陥りまして、ある日父親である社長と大喧嘩のあげく家を飛び出しました。
中小企業にはよくあることですが、マイカーも実は社有車で、家を出る時に取り上げられました。
父親は根性無しのドラ息子が折れて帰って来るとタカをくくっていたようですが、そこは世間知らずのドラ息子ですから怖いもの知らず。
良妻賢母の妻に支えられつつ、職を転々としながらなんとか食いつないでおりました。
その間、いろんな仕事を経たおかげで、数々の技能を身に付けるとともに、遅まきながらドラ息子も、ようやく大人になっていきました。
紆余曲折のなか紹介する人がいて浜岡グランドボウルに就職、浜岡町(現御前崎市)に引っ越した時には現金をかき集めても5万円しかないというどん底でしたが、好きなボウリングで食べていけるのは、凄く嬉しかったですね。
ちなみに、妻と結婚に至ったのもミックスダブルスを組んでいたからなんです。
貧乏しながらも細々とボウリングはつづけておりました。
ニューボールなんて買えませんから、友達のお下がりをプラグして使ったり、ハウスボールを使ったり。
おかげでボールに頼らないボウリングが身に付きました。
(今はレーン上のオイルも多くなりボールも進化していますが、昔は投げ方でなんとかなったものです)
それから何年か経った頃に実家と取引がある信用金庫から電話がかかってきました。
なんと実家が倒産し、両親と弟が行方不明になっているとのこと。
居場所を知らないかと聞かれたので正直に「知りません」と答えました。
すると、連帯保証人として弁済して欲しいと言うのです。
そう、筆者は実家で働いていた頃、借入金の連帯保証人になっていたのです。
150万円ぐらいでしたのでなんとか支払えましたが、その後判明したのは、妻の父親にも保証人を頼み込み、少なくない負債を負わせていたことです。
妻は兄弟たちから白眼視され、これからしばらくの間、生まれた家に行けなくなりました。
ただ、妻のお父さんが立派な方で、その後も特に責められることもなく付き合ってくださいましたが、債務の処理にはご苦労されたことと思います。
ちなみに筆者の両親は藤枝に隠れ住みながら、自己破産をかけてケリをつけたのでした。
今思えば、跡取り息子の筆者が不甲斐無かった点が慚愧に堪えません。
妻の実家、また本家をはじめ親戚の皆さんにご迷惑をかけてしまい、今でも申し訳なく思っています。
さて、またしても僅かな蓄えを失った筆者一家でありますが、更に追い打ちをかけるような事件が起こります。
グランドボウルチェーンを経営していた都築紡績の倒産です。
破産管財人さんのおかげでボリングチェーンの営業は継続され、買い手を捜すことになりました。
そんな時に、稲沢グランドボウルへの転勤を命じられました。
もう半分やけくそで、愛知県に移り住んだのです。
チェーンを解体してのバラ売りや閉鎖が懸念される中、外資系ファンドが旧都築紡績を丸ごと買ってくれることになり、グランドボウルチェーンも存続することになりました。
とりあえずピンチが去ったかに見えたのも束の間、今度は外資系ファンドの意向で40歳以上の社員は退職ということになったのです。
筆者はその時に既に40歳をとうに超えていましたので、退職勧告を受けました。
会社都合とは言え勤続年数が10年にも満たなかったので、提示された退職金は半年分の生活費程度で、人生何度目かのピンチを迎えました。
幸いにも社内外の何人かの人たちが筆者を推薦してくれたおかげで、なんとか会社に残ることができました。
その後もあれやこれやと波瀾万丈なんですが、きりがないのでこれぐらいにしておきましょう。
その間、妻は愚痴もこぼさず、ずっとついてきてくれました。
彼女がいてくれたから、筆者は生きてこれたのだと思います。

カテゴリー: 思い出話

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